資本主義の価値転回はあるのか ~『20世紀とは何だったのか(著:佐伯 啓思)』 から資本主義の歴史を読み解く~

「善き社会」「善き人生」と聞いて、どのような状況を思い浮かべるでしょうか。
「経済的に安定している」「欲しい物がすべて手に入る」といった環境を思い浮かべる方が多いかもしれません。

今のわたしたちの生活はある程度、物質的欲求を満たしているかもしれませんが、「善い人生を送れているか」と問われれば、即座に「Yes」と答えられる人はそう多くはないのではないでしょうか。物の充足やおカネだけでは、必ずしも真の充足感や安定感に結びついているとは限らないようです。それは一体何故なのでしょうか。

京都大学名誉教授で社会思想史などが専門の佐伯啓思氏の『20世紀とは何だったのか』(佐伯啓思著・PHP文庫。以下同様)を紐解きながら、西欧社会がもたらした近代主義がわたしたちをどこに連れてきたのかを確認し、「ニヒリズム」という観点から、これからのビジネス経営に何が必要なのかを考えたいと思います。

このブログ記事は以下に当てはまる方におすすめです。

  ✅ これからの経営にどのような考え方が必要なのかを捉えたい方
  ✅ 企業を持続的に成長させるためのパーパスを模索している方
  ✅ 「新しい資本主義のかたち」とは一体どういうことなのか考えたい方 など

ニヒリズムを生み出した20世紀の西欧社会

ヨーロッパの夜景

『20世紀とは何だったのか』では20世紀に価値観転換を迫られたヨーロッパの歴史が綴られています

その中で、ドイツの哲学者・ニーチェの思想をもとにした「ニヒリズム」についても触れており、現代社会に影響を及ぼしているその考え方と西欧社会の変遷について、まずはみていくことにしましょう。

経済と科学の発展が「価値の崩壊」を生み出した

18世紀後半にイギリスから起った産業革命によって大規模な工場等の建設の需要が高まると産業資本が成立し、資本家が生産手段などの資本を所有して、それをもたない労働者の労働力を買い取って生産を行い、利潤を獲得する資本主義の経済システムが発展していきます。この資本主義の考え方は英国から西欧全体に広がっていきました。

これまでの貴族を中心とした支配階級以外にも、資本を持つ新興勢力が力をつけるようになり、個人の権利や自由が重視されるようになっていきます。ヨーロッパの「近代」は、技術的な発展はしましたが、政治、経済、文化での「歴史の進歩」という意識を保持できなくなって、衰退という矛盾を抱えることになります(※アメリカが台頭します)。

キルケゴールは、「水平の時代」と表現し、「みなが相互に同じだという意識をもっている」といいます。彼は、神という超越的な権威を見失った人間は、神のほうを向くのではなく、お互いに相手のことを気にし、相手に合せようとすると強調します。

つまり、科学技術の発展は、これまで絶対だった神の存在にも揺らぎを生じさせ、社会の価値観が大きく揺さぶられます。

神の力により私たち人間は幸せになれる」という思考から「自分たちの力で努力するからこそ幸せになれる」という考えが、周囲に適合することを目的化し、これまでのヨーロッパが持っていた価値感が喪失していったのです。大衆文化の始まりです。

こうして20世紀に入り、絶対的な価値観を見失ってしまうと、人々は何を基準に行動すればよいのか分からなくなってしまいました。そこで人は周りの人と比較しながら自分の行動を決めるようになります。それが皮肉にも大衆社会を生み出し、全体主義への傾倒にもつながったといいます。

ニーチェのニヒリズムとは

このように、20世紀のヨーロッパで社会の価値観や信念・信条が崩れた状況を、ニーチェは「ニヒリズム」(「最高の諸価値の崩落」)と呼びました。

ニヒリズムとは一般的には「虚無主義」を意味し、近代思考の中で誕生した哲学用語です。
「虚無主義」という言葉のとおり、「物事には何も意味がない」「世の中には正解はない」と考える思考を指します。

ニーチェが考える「ニヒリズム」には、次の3つの形態があると考えました。

  1. 目的の崩壊
  2. 統一の崩壊
  3. 真理の崩壊

わたしたちは社会活動を行うとき、「それがどの程度重要なのか、それが自分にとっていかなる意味を持っているのか、こうしたことをたえずわれわれは問う」(同書、P69)ていて、社会的価値がわたしたちの行動の基準となっているものです。

たとえば、「わたしたち人間は助け合わなければならない」という価値がなくなったら、その行動の意味を見失ってしまうのではないでしょうか。

わたしたちはそれぞれの文化が持っている社会的価値や信条・宗教などから、無意識に行動の意味や活動の目的を設定しようとしています。もしも、これまで正しいと思っていた価値が崩壊してしまったら、目的を見失ってしまいます。それが「目的が崩壊」したニヒリズムの状態だとニーチェは表現したのです。

ニヒリズム3つの形態

また、ニーチェは、世の中は多様化していて、これまでのように一つの統一した体系であると考えることができなくなったと捉えました。これまでのヨーロッパという、目に見える範囲の中で通用していた体系(例えば、キリスト教社会、絶対王制など)が崩れ、もともと共通に持っていた価値観などは、そこに所属している人間が勝手に考えていたものであって、世の中から見ればあらかじめ統一したものなど何もないのだと考えたのが、「統一の崩壊」という状態です。

現代に置き換えて理解を試みると、欧米以外にも中国やアジア、中東、アフリカなどではそれぞれに価値の体系をもっていて、一つの統一された体系では物語れません。また、それぞれの地域はよく見ればさらに細分化されていて、多様化しています。ニーチェは、ヨーロッパ中心主義が崩壊したときの状況をよく捉えているのではないかと思います。

しかし、世の中は多様な価値体系が存在するけれども、それを越えた真理は存在するとわたしたちは考えたいものです。例えば、「平和な社会」「安心な社会」「幸せを追求できる世の中」など、人類共通の真理があるはずだというようにです。ところがニーチェはその真理さえも存在しないのだと考えます。それが「真理の崩壊」です。

これが、彼が考えたニヒリズムでした。

ここからが重要なのですが、ニーチェは単に「すべてが崩壊した」と虚無主義を主張したのではなく、価値体系というものは所詮人間が作り出したものなのであり、われわれが当然だと思っている既成の価値はいったん壊して新しく作り直せばいい、と考えたことです。

現代のわたしたちが学ぶべき点

ノートパソコン

新たな価値を生むためのニヒリズムとは?

「物事は何も意味がない」「世の中には正解はない」など、一見ネガティブな印象を持ってしまいがちなニヒリズムですが、ニーチェはそれを能動的な意味へとつなぎました。

ニーチェの遺稿を妹のエリザベートがまとめた『権力の意志』という著書の中で、彼は人間の本質は「力への意志」であると述べています。「人間は、今ある状況から、より高いもの、より大きいもの、より偉大なものへ至ろうとする力への意志をもっている」というのです。
こうした意志を人間がもっている限り、世界は固定されたものではなく、常に変わり、生成をしていくものなのだと考えたのです。そして、“人間の意志”によって主体的に価値創造ができると考えたのです。

ただし、こうした価値創造を成し遂げるためには、ニヒリズムの状態であることを認識し、これまで当たり前と思っていた価値を疑い、放棄しなければならないということなのです。

目的を見失った資本主義を問う

21世紀のいま、日本ではお金さえあればいろいろなモノが手に入る時代となりました。科学が進歩して便利になり、物質的な豊かさを得たことは利点が多く見えがちですが、経済活動を優先するあまり、環境破壊を引き起こしたり、グローバルレベルでの格差や貧困を生み出したりしています。
豊かになろうとして一生懸命働いた結果、その手段であったはずの経済活動がいつしか“より多く”おカネを得ることを目的としてしまったのかもしれません。

わたしたちビジネスパーソンは、売上を上げ続けて成長すること、より多く利益を出すことがあまりに当たり前になっていますが、企業活動の目的は本当にそれだけなのでしょうか?

佐伯氏は、わたしたちが当たり前と思っていることについて「われわれは日常生活において問おうとはしない。近代の哲学者ですら、この問を問題にしようとはしなくなってしまった。」(同書、P107)と指摘しています

もちろん、事業を運営していくためにはおカネが必要です。そして、人は生活するおカネを稼ぐために働いています。おカネの循環は大事なことですが、わたしたちの企業活動の本当の意味や、存在意義を今一度考えてみる必要があるのではないでしょうか。

それが今、社会のなかで企業が果たす役割を問うSDGsやESG経営、パーパス経営などに現れてきています。

物事に対するかかわり方を問う

天灯

ニーチェの思想は、19世紀の終わりから20世紀にかけてヨーロッパにおいて影響を及ぼし、その後多くの哲学者が著者を発表します(ちなみに世の中の価値観が揺れているときに哲学的な思考が発展するといわれています)。
なかでも、ハイデガーという哲学者が1927年に『存在と時間』を記しており、『20世紀とは何だったのか』の第3章で佐伯氏は、ニヒリズムと「存在の不安」と題して、ハイデガーが問うた「存在」について解説しています。

例えば科学は、まず、何かが存在していることを前提にして、それは何なのかを成分に分解していき、説明していくものですが、まさにこれが西欧近代の考え方に近いのだと佐伯氏は述べています。「近代哲学や近代科学は、「私」は「世界」の外に立って、「世界」を分析」(同書、 P112)するというスタンスです。
本当は「私」は「世界」の中にいるのに、今では当たり前のようになっている自分を中心においた考え方です。そこにハイデガーは「存在」とは何なのかを疑問を抱きました。

そこに「いる(存在している)」意味というものを、わたしたちは滅多に考えることはありません。世界で起きていること、わたしたちを取り巻く環境変化などの本当の意味を考えることなく、目の前の仕事、事象に翻弄され、他者の中に埋没しています。「なんとなく大勢に従ってゆく。他人という明確なものでもなく、「世間では・・・」とか、「人はみなこうしている」などとつい言ってしまう。・・・ほとんど惰性かつ情緒的に「人」のいうことに同調してしまっています」。(同書、 P119)

世界の中から世界を見る、すなわち「世界の中に存在する自分」として物事を捉え、周りに流されることなく主体的に考えていかなければならないのです。

人は決して過去から逃れることができない代わりに、未来を作ることはできます。「既存」(過去)、「現在」「将来」の時間意識こそが人間の「本来性」を回復する手立て」(同書、P122) なのかもしれません。

まとめ

羽ばたく白い鳩

20世紀の経済発展は、先進国に住むわたしたちに恵まれた環境をもたらしました

ところが、その経済活動によって価値の喪失が始まり、目的と手段を見失う事態を招いてしまいました

人々は「本当にこれでいいのかな」と心の中では感じているのかもしれませんが、これまで通りのやり方で日常を過ごしています。

しかし、そうした不安に向き合うことができれば、これからどうすべきかを考える契機になるかもしれません。自分自身の物事への向き合い方、仕事の意義や会社の存在意義など、今一度真剣に考えてみてはいかがでしょうか。

  
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